先生、こんにちは。
ソーラ・ヒーリングアソシエーションの橋本 典之です。
クライアントと話をしていたらお彼岸という事もあり先祖供養のお話になりました。
なかなかお墓に行けていないと仰るクライアントの口から凄い言葉が飛び出てきて驚きました。
行けていないお墓参り、先祖供養の代わりに、あかの他人に先祖の供養をお金を出してお願いしているというのです。
私はびっくりしたのと同時に、呆れてしまいました。
お金をだして誰かに依頼するようなものなのか?というのが私の意見でした。
私は
行けないのなら、仕方がないのではないですか?
それを誰かに委託するのってどうなんでしょう?
と私は思うのですが古いのでしょうか?
そもそも、行けないのなら行けないなりに、いつも気に留めているとか、行ける時に行くでいいと思うのです。
クライアントは、身の回りの上手くいかない事が先祖供養されていないことが原因でそうなっていると誰かに言われた様子でした。
この手の話はよくある話のようですが、私はその話自体が次元の低い話ではないかと思うのです。
先祖供養をしっかりしていたら、すべてが上手くいくとでも思っているのでしょうか?
先祖の墓にお参りに行かなかったら、悪いことばかりが起きるとでもいうのでしょうか?
その考えには私自身呆れてしまいます。
我々は命を今につなげてくれた先祖が何十万人もいることは事実です。
実際のところ、その何十万人の全てを供養できるはずもありません。
それよりも我々はその何十万人の末端の人間として今ここに生かされているという自覚が必要なのだと思うのです。
末端である私自身は、過去の先人たちにとっては「期待の星」なのだと私は思っていて、その私が今どのように生きているのか?という事が先人たちは一番気になっていると思うのです。
過去の先人もすべての人がやり切った人生を歩んだとは思いません。
そういった見方をすると、われわれ末端に生きる者は相当の期待をされているはずです。
どんな風に生きれば先祖は喜ぶのか?先祖は私に何を望んでいるのか?
というように考えることで今の生き方というものは決まってきます。
その生き方こそが本当の意味の供養になると私は思っています。
お線香をあげて故人に供養することも重要ですが、生きている私たちができる事は誰かに供養を依頼することではないはずです。
人の弱みに付け込んだこの手のビジネスはほかにも沢山あるように思いますが、冷静に考えてみたら誰にでもそれはオカシイと分かるはずです。
その判断もできないほど、なにもかもが他力で、自分の力で何とかしようという考え方すら失われているのです。
クライアントに
先祖供養っていうのはそういうものではないんだよ。
あなたが立派に生きることで癒されて喜んでいるんだよ。
と話したら分かってくれました。
あかの他人が供養してどうして先祖が喜ぶのでしょうか?
ソーラ・ヒーリングアソシエーション
橋本 典之